TOPへ   来たページへ戻る 

川西小学校・同窓会  2006年5月21日(中元先生宅)

 昨年、2005年3月7日 77歳の誕生日に中元十三(一三)先生は急逝された。
 無事一周忌を済まされ我々はお墓参りを主として奥様のご厚意で先生宅に集まる。  小学校の4年1組から6年1組までの担任で3年間ともクラス編成が無かった。我々は団塊の世代、 子供が多く湧き出し編成作業がめんどくさったのか、よおわからんけど、それゆえ 先生の記憶がいっぱい残っている。  男子=5名、女子=8名の13名で各人が先生を偲び語りあった。  (兵庫県猪名川町銀山)

お墓参り
 車3台で10時半ぐらいにやっと着いた。道先案内人は途中で山道に入り込み、にっちもさっちも行かないように 我々を先導しよった。
 間違いやと誰もが気付いていたのに気付いていないのは本人だけ。 ドンドン走り、「アレッ」。Uターンがギリギリ。ついて行った私と岡は何とか無難に戻り道を走り出した。
 しかし、案内人の谷添はなかなかやってこない。谷添が谷底に落ちよったんちゃうかと田畑が心配で心配で ひっきりなしに振り向いているのかな、と、横を向いたら、ホットケホットケゴミやさん。
 到着後、奥さんのお経に誘われ線香を焚き手を合わせた。
 お墓参りがこんなに楽しいものなのか、何がそんなに嬉しいの?。案内人夫妻。
 墓の中から先生かて笑うしかないやろ。ええかげんにせんかい!。
 でも、こんなお墓参りがあってもいいな。

お堂
 小高い丘のお墓への入り口にある。老朽が激しく入ることが出来なくなっていたらしい。
 それを中元先生が修復された。外装、内装。私らは奥様の案内で靴を脱いで上がらしていただく。  仏像がよみがえっていたように思えた。
 先生は書画の達人。書と絵画の指導者でもあった。写真の絵画と書も先生の作品だ。
 地元の方が先生の夢を見たという。天からゆっくり降りてこられ、にこやかに微笑まれ諭して下さり、 天に戻っていかれたという。教育者を引退された後は悟りの境地か心身ともにこの地で活動された。  遺跡の案内、解説等の書が板に書かれているのをいたる所で目にしてきた。

宴会・先生宅
 お座敷には豪華なお料理が並んだ。早く食べたくて蓋を開けたり閉めたりのオッサンがおり女性に叱られとった。 誰とは言わないが体格のいいやつだった。それじゃと奥様が食べましょう。乾杯の音頭をとってくださり宴会開始。  箸が進み飲み物はたっぷり。小学時代の思い出をひとりひとり先生を偲び語りだす。

 悪戯してはたしなめられた。鉛筆はナイフで削る時代。机まで削ってたやつがおった。 もちろん椅子は削られ尖っていた。その椅子と机はどうなっているのだろう。

 父親代わりでお兄さんのように慕っていた。勉強が出来なかったがちょっとでもいい成績だとほめてもらった。 昔の通信簿は5段階。1から2に上がった。いうまでもなく5がよく出来ましたの時代。

 始業開始の鐘がなってもグランドを走ることなくのんびり遅刻ばっかり。でも怒られなかった。見捨てられていたのが 当時はわかっていない。もちろん今でもわかっていない。今後もわからないままでいるだろう。

 冬の暖房は石炭ストーブ。スチールネットで囲いがしてある。昼ごはん前にはネットの上に弁当を乗せて温かくする。 ところがストーブの真上に置き弁当が真っ黒けで泣きべそ。 先生は「あかんがな」と言いながらも弁当を内緒で分けてくださった。

 出来の悪いアホやったのをチョコッと勉強してみなさいと先生に言っていただき、チョコッとだけその気になった。 チョコッとづつ勉強してみると、チョコッとづつ賢くなっていく。 中学に進めたし落第もしなかったのを凄く感謝している。

 この問題が解からない人は手を上げなさい。「はいっ」。いっつも元気に手を上げていたのは一人だけだった。 今日も元気に「はいっ」。
 ところが、解かる人は?。の時は一人だけ手を上げていなかった。ような気がしてならない。

 私学の中学へ行く時には面接の指導をよくしてもらった。とっても行儀の悪い生徒だったのに、お陰で無事合格。 今はおしとやかなおばちゃま。

 教室、廊下の床は板の油びき。掃除がいややとカクレンボしてて見つかった。ひとの3倍は掃除をやらされた。

 家庭訪問が嫌で先生が来たら早く帰ってもらおう。 家の外で先生に次の家を案内するから早く行こうと催促してもなかなか出てこなく 親に何を言われてるのか、やきもきしてた。が、何を言われてたのか今はすっかり忘れた。それを老化という。

 放課後は暗くなるまで野球をしてた。当時のグランドは開放で誰でも入れる。中学生や大人も混ざって遊ぶ。 夏には薄暗くなったらコウモリが飛んでくる。ボールを投げて当てようとしても当たるはずが無い。当たったのは 校舎の窓ガラス。ガシャッ。走って逃げた。犯人は今も逃走中。先生、ごめんなさい。

 等々、聞いてたら、  今日ココに集まった生徒で当時優秀なやつは誰もいなかったのがようわかる。 優秀なのは私だけだったのがはっきりした。

 先生は亡くなられても、こいつらの指導をまだまだせねばと我々を招いてくださったのだろう。
 しかし、しっかり大人になり中学生の孫がおるお婆さんやお爺さんもいてた。  座敷の掛け軸も先生作。

銀山史跡・金山彦神社〜青木間歩
 腹ごなしにしばらく散歩。先生宅から歩いてすぐのところに金山彦神社があり、 その奥に 青木間歩まぶ(坑道)がある。奥様に案内していただき歩いてきた。

 小学校6年1組の全員が先生に連れられてこの地を訪ねたことを思い出す。今から約半世紀前だ。 今は車が普及しているが当時は能勢電に乗って、どっかの駅で降りて、その後はよく覚えていないが、 子供だったから疲れを知らず山道を延々と歩いて行ったことと思う。河原で遊んだり銀を含んだ石を持って帰った。

 ここの銀山は奈良時代、東大寺の大仏鋳造に銅を献じたといわれる銀や銅の産地である。 1570年には豊臣秀吉により鉱山を盛大に開発されもっとも栄えた。 明治時代には製錬所が新設され、昭和48年まで採鉱していた。

 それと、埋蔵金伝説があり、いまだ夢を見て捜し求めてる人たちがいる。  豊臣秀吉が晩年に秀頼の行く末を案じ4憶54万両(現在では約200兆円)を埋蔵したらしい。  その埋蔵作業に携わった者は全員抹殺されたと伝えられ、多くの霊が漂っているともいわれる。 奥様からも霊の大小さまざまなボーとした玉が出るよ、と、お聞きした。 私は数珠を持っていかなったので恐ろしくなったが、 大木の木陰で一服したり薫風かおる木々の若葉を眺めたりしていると心が安らぎ、恐ろしさなんか吹っ飛んだ。

 金山彦神社は平安時代、銅を採掘していた971年、鉱山の守り神として建立された。 ここの門でも先生作の説明書きが板にびっしりと書かれている。

 青木間歩は昭和の時代に機械で掘られた坑道。電気が通っており照明がなされている。
中へ入るとヒヤッとするほど涼しい。 長雨で足もとには天然水がにじんでいたが、今日の暑いぐらいの日にはクーラーの効いた部屋に入ったかのよう。 その上、風が無いので天然の避暑地。しかし、この中で住んでみようとは思わなかった。  やっぱり、太陽も見たいし山や川、野菜や草木が身近になくっちゃ。海もあればなおよろしい。

お庭で
 歴史浪漫の里、銀山(多田銀山)の史跡に先生宅がある。 約6時間ほどお世話になっての帰りしな庭で写真を撮った。 緑の美しい季節で木々の新緑が映えている。庭の横は川が流れその向こうに岩山がそそり立つ。
 素晴しい自然環境だ。その中で奥様の手料理、 竹の子の煮付け、紫豆の煮付け、ワラビのお浸し、新鮮なサラダにお漬物。感激に感謝。
 にこやかに出迎えてくださった奥様はひとり一人を見送ってくださった。目にはうっすらと涙を浮かべて。  また来ますよ〜。

川西小学校のホームページ

このページの先頭へ